昭和四十七年七月十三日 朝の御理解
x御理解第二十七節
「昔から、あの人は正直者じゃ神仏のような人じゃという者でも、段々不幸な事が重なって、世間では、どういうものであろうというような事があろうが。なにほど、人に悪い事をせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」
教祖の御教えの中で、浅い意味で御教え下さってあるものの代表的なものだと思いますねえ。次にいい人だと、しかも家族中でいい人ばっかりだけれども、不幸せが続くとゆう家がある。だからそれと反対の事が、強欲で非道でとゆう人でも商売が繁盛したり儲けだしたりしてる人もあるとゆう訳なんですねえ。ですから信心しておかげを受けるとゆう事は、別物だとゆう事。そこで私は、ここで思うのですけれども、お互い信心させて頂きますのに、成程おかげを受けておる。教えを本気で行じておる訳でもなからなければ、信心者だから、成程違うと思われる程しの信心を、所謂信心しておっても変わり映えのない人でも、やはりおかげを受けておるとゆう事。
と思うと、又反対に教えに忠実に熱心に信心しとる。にもかかわらず、おかげが受けられんとゆう人があるとゆう事実がある。ですから私共は、ここで分からせて頂かねばならんと思います事は、信心しておかげを受けておるとゆう事。それは、そんなら仏様のような人、神様のような人でも不幸な人がある。けれどもそうゆう人でも信心しておかげを受けておるとゆう、そうゆうおかげで、もし終始したら大変な事だと思うのですね。おかげを受けておるから、長い間の信心をしておるだけの信心であったなら。
そこで一生懸命信心させて頂いて、信心の有難さも分かり教えも段々分からせてもろうて、教えに忠実であるとゆう人達がおかげを受けられないとゆう事。これはいよいよ形の上ではなくて、無形のおかげ。言うならお徳を受けておる時だと思わなければなりません。それを信じなければいけない。信心すれば、例えばそんなら善人の反対の人達でも、神仏のような人の反対と言うのですから、それこそ鬼じゃろうか蛇じゃろうかとゆうような人でも、そんなら浅ましい心を持っておる人でも、おかげを受けてゆけるとゆうのが信心なんです。信心しておかげを受けるとゆう事は別ものだと。
そこでおかげを受けるからと言うて、その、おかげに腰掛けて、そんなら善人とは反対の人間的な、言うならつまらない人がです、信心しておかげを受けていくとゆう人は、まあお願いをしておかげを受けるとゆう事が大変な事だと気付かにゃいかん。そこで私共が、ここで一同が思わにゃいかん事ですよ。私が果たして本当に神様仏様のような人に段々変っていきよるかどうか、改まりよるかどうか。そうゆう改まりばえも何もない、私がおかげを受けておるのでしたら、他の御教えに頂く、わが心が神に向うのが信心とゆうのじゃとゆうような意味合いの信心からは外れておる事になる訳です。桂先生のお話の中に、取次の者が徳を受けて、そしてここで申しますように、それこそ善人であろうが悪人であろうが、お願いに来る者には、さっさとおかげの貸付をしておけと。この世で、その氏子が支払いが出来ぬなら、神があの世迄も取りに行ってやるからとおっしゃた。ですからそうゆう事になったんでは大変でしょうが。私共が教えを行ずる事もなからなければ改まりもしない。一向変わり映えもしないで、もしおかげを受けておる。成程おかげを受けるのは別物と言われるおかげを受ける訳なんです。
だからそうゆうおかげだけを、私共が頂いておるとするとです、おかげを頂くから、只もうおかげに腰掛けておるとゆう信心であったら、言うなら天地に借金をしてるようなもの。神様に、言わば貸し付けられておるようなもの。この世で払えん時には、あの世まで神様が取りに来なさるような、あの世に迄集金に来られるような事になったら大変だと思わせてもらわなければ出来ん。
ですから、ここのところの私は、今日の御理解は信心さえすれば誰でもおかげが受けられる。ここでは信心とは日頃言う、信ずる心とか、又真心とか神心とゆう意味じゃないですよね。只拝み信心と言うてもいい、只一生懸命拝むとゆう意味合いの信心。それでもです、おかげを受けるのは別物と、お前は心がよくないから、おかげをやらんとおっしゃる神様ではない。願えばおかげを下さるとゆう事。ですから、そのおかげにそんなら腰掛けて、私共が一生、只おかげおかげと言う事になったらです、ここにはありませんけれども、その裏と言うか、少し深いところを思わせて頂くと、これは大変な事だとゆう事。
だからどうでも本気で、私共が改まらせて頂き、そして本気で研かせて頂き信心の喜びを感じさせて頂くようになって、そして反対になる。信心しておっても、あれ程熱心な信心されるのに、おかげが受けられんとゆう事実があるとゆう事。だから、これは今私が言う、目に見えない無形のおかげを受けておる時だと分からして頂いて、いよいよその信心を推し進めていく以外にはない。だから合楽では、そこのところを何時も聞いて頂くし、又お互いがそこのところに焦点を置いておる訳でございますから、そこのところをこの御理解の言外の言とゆうところ、言葉には出てないですけれども。
例えば正直者でも不幸せが続くとゆう人があるように、信心はしておっても不正直な者、言うなら悪人でもやはり信心しておかげを受けるのは別物とおっしゃるのだから。この別物とゆうところをです、私共は分からして頂いて。
又の御理解に「おかげは受け徳、受け勝ち」とあります。これなんかでもいくら信心してもおかげさえ頂きゃあ、おかげも頂き儲けだと、ここのところに感じますけれども決してそうじゃないです。いかにもおかげは改まりもせん、例えばおかげの引き当てになるものも何にもなしにおかげを受けるとゆうならばです、それは天地に対する借金のようなもんだから、桂先生を通して神さまが教えられてあるように、この世で支払いが出来ん時には、あの世迄も取りに行ってやるとゆう事になる。あの世では、おかげを頂いておった事が苦しみの元になるとゆう事なんです。だから只おかげおかげでおかげに終始するならば、それは大変な事だとゆう事です。
そこで私共は、ここで所謂別物とおっしゃるおかげを受けるのは別物だとおっしゃる。そこで他の御教えを頂きますとです、結局信心とは本心の玉を磨くもの、日々の改まりが第一とゆう事が説かれてあり、そしてわが心が神に向うていく、言うならば信心してお徳を身に受けるとゆう事が信心の眼目である。ここの御教えとは裏腹に、そんなら信心はしておっても、しかもあんな良い信心が出来る、その人がです、そんならおかげを受けられないで難儀をしておるとゆう事実がある、とゆうところにはね、いよいよ形でないものを、その人は受けておるとゆう事。おかげは受け徳受け勝ちとゆうのは、問題は徳を受けた者が勝つとゆう事なんです。おかげは受け徳、もう頂き儲けとゆう意味でなくて、そうゆう響きがあります、一寸言葉のあやで。おかげは受け徳受け勝とおっしゃるけれども、徳を受けた者が勝ちだとゆう事なんです、最後の勝利とゆうのは。
そこで私共は、どうしてもやっぱりその別物とおっしゃるね、そこのところのおかげをね、頂かなければならない。そして目に見えない、言うなら無形のもの、それはお徳である。そのお徳を受けて、言うならば力を受けて頂くところのおかげ。だからそこのところのおかげを頂かなければならんとゆう事になります。又そこを願わなければならんとゆう事になります。もう合楽では、ここのところだけを、言うなら説いておると言うてもいいと思うのです。
けれども、そんなら私共はです、そして毎日そこのところを聞かせて頂いておるのにもかかわらず、只おかげに腰掛けた信心をしておるとゆう事は、これはもう由々しき事だと、早く悟らせて頂いて、本気で所謂昨日の御理解じゃないけれども、信心する者の真の信心とゆう事。真の信心を目指さなければならない。今日私がここの所に気付かせて頂く事は、言うならばどんな人でもありますよねえ。沢山な人がお参りをして来る中には、人から後指を差されるような人もあります。こす気のある人もあります。信心がない人でも、そんな事は言うたりしたりする人はないとゆう事を平気で言うたりしたりする人があります。だからそうゆう人がです、そのままもしおかげを頂いていったら大変だとゆう事を、今日は分かって頂きたいと私は思うのです。皆さんおかげが受けられると言うのですから、信心をすればここにお参りをして来よりゃ。ですからここはもう、どう深う頂こうとしても、これだけの事のような感じがするのですよ。言うならばひとつの道理をここでは説かれただけだと思います。
世の中には、それこそ神様仏様のような心がけの良い人がおるけれども、難儀な事が続いておるとゆう事は、神様のおかげを受けるとゆう事は別物。だからそれを反対に、悪人の人でも、どんなに浅ましい人でも、神様お願いしますと言うて、その気になってくると、そうゆう人が改まらんでも、言うなら悪人でもおかげが受けられるのが信心。
けれども今日は、桂先生の御教えをそこに引用してから聞いて頂いた。又の御理解のおかげは、受け徳受け勝ちとゆうのも引用して聞いて頂いた。いかにもそんなら、おかげは受け儲けのようにあるけれども決してそうじゃない。この世で本当の信心に気付かせて頂いて、只おかげだけを追うておるような事では、天地に対するところの借金のようなものであって、あの世までも神様が取りに来なさらなければならないような事では大変な事だと。さあ、あの世に行って集金に来られて気が付いたんでは遅か。早くね、そんなら合楽にこれだけ御神縁頂いておる人達が、毎日頂かせて頂くのは、ここではなくて、もうひとつ向こうのお徳を受ける。わが心が神に向うとゆう事を説いておる。その事に終始しておるといってもいいくらい。ですから早く、そこに私共が本気で開眼しなければいけない。早く気付かなければいけない。本気で信心とは、日々の改まりが第一じゃ、信心とは本心の玉を磨くものだとゆう事を、本気で気付かせて頂かなければならない。成程皆さんが改まらんでもおかげ頂きよるから、と、おかげに腰掛けたら大変だとゆう事を分からにゃいかん。
そこで私は、これを読ませて頂いてから、その程度にしか説きえません。そこでここからヒントを得て頂く事はないかと思うて。又の教祖の御理解を開かせてもろうたら、この事を頂くのです。ある人「金光様、あなたはおたっしゃで多くの人をお助け下され、結構な事でございます。」と御挨拶を申し上げしに、「此の方も人間じゃけに、体に塩をしておらぬから、何時迄も生きられるとはゆかん。人間は生き通しが大切じゃ。生き通しとは死んでから後、人が拝んでくれるようになる事じゃ」と。だからここから合楽風に、どうでも頂きたいとゆう事になると、ここんところになってくる訳です。
例えば私、今、あの、御理解二十七節を聞いて頂いてですたい、合楽の皆さん全部が、本気でそんなら信心しておかげを受けておるとゆうだけの人がありはせんかとゆう事なんです。いやあるんです。信心しておるから、おかげを受けておるとゆうだけの事。信心して改まらしてもらいよるから、本気で研かせてもらいよるから本気で御用させてもらいよるから、おかげを頂いておるとゆう人は、ごくわずかです。してみるとです、私はここのところを、今日はそこんところをこの二十七節から分からして頂いて、只信心しておるからおかげを受けておる。私のような浅ましい者でも、私のような悪人でも、私のように、言うならつまらん信心の者でもおかげを受けておると気付いたらです、それでは、もういかんとゆう事をです、いよいよ思わなきゃいけないとゆう事。神様は改まらなければおかげはやらんとおっしゃる事はないけれどもです、そんならもう改まらにゃおかげはやらんとゆうようにです、神様は厳しくそんなら言うておられる人達もあるのです。そんならあの人達は神様のような人だ、中々信心も出来なさる、と言うても難儀な事が続いておる。これはここの御理解の反対ですねえ。もうその人はいよいよ目に見えない無形のものを受けておる時だとゆう事になります。これは自分の心に問うてみなければいけません。本気で御教えを行じさせてもらい、本気で真心とは真心とはと真心を追求しながら、真心の奉仕中に専念?させてもらっておるとゆう人なら自分の心にも感じます。「今こそ徳を受けておるのだ」と、これは別物です。
当時教祖様を生神様生神様と申し上げたから、生神様はもう死なれないのだとゆうような考え方をしておった人が沢山あったらしいのです、その当時。けれどもそんなら此の方としても、やはり生身を持っておるから塩漬けにしとく訳にもいけんから、やはり死ぬるんだとゆう事を言っておられます。けれども人間は生き通しとゆう事が大事じゃとおっしゃておられる、生き通しに出来る、それが信心なんだ。だからそこんところを、私共は開眼しなければいけない。生き通し、とは死したる後もです、人に拝んでもらえるような私とゆう事なんです。信心の道を迷わず失わず末の末迄教え伝えよとおっしゃる、その真心の道とゆうものを、お互いが本気で身に付けておかなければ・・・・おかげを頂く道じゃないよ。真心の道だよ。真心の道を身に付けておく。そしてそれを子に孫に伝えていく時、子がおかげを受けるだろう孫がお徳を受けるだろう。してみると、おばあちゃんのおかげで、又はおじいちゃんのおかげで、と、このおかげの受けられるようになった元、私の方で言うなら両親の信心とゆうものがです、私がおかげを頂いていくならば、いよいよです、両親が亡くなっても、その霊様は拝まれ通しに拝まれるとゆう事になります。只お先祖さんを拝んどりますとゆう、そうゆう意味の拝みよりますじゃないですね。本当に、あのお爺ちゃんお婆ちゃんの信心によって、今日の大坪家があるんだと、本当に感謝されるとゆう事。子供が孫が、さあ式年式年に、式年祭はするけれども、さあ五十年祭も済んだら大概が孫の代、そうすると後はもう疎かにされるとゆう拝まれ方では駄目だとゆう事。百年たとうが二百年たとがです、うちの信心の元をとって下さった真の信心の道を教え伝えて下さった、その元とゆうものを、そこのところのおかげでなからなければならない。それが生き通しだとゆう事になります。そうゆう言うなら生き通しの信心を、私共は目指させて頂いておるのですから、合楽でもう口を開けばお徳を受けるとゆう事の信心。
昨日の御理解の中にもありましたように、真の道、真とゆう事、本当な事だとゆう事。その例えば真心を御用に打ち込むとゆうお話をさせて頂きました。しかもそれには御の字を付けられる程しの御用でなからな、生きた神様の働きとゆうものに、私共がその手になり足になるとゆう事が真だと、ゆう事と真とゆう事は、本当な事が分かるとゆう事。真実な事が分かるとゆう事。それは例えばここにひとつの難儀な事が起こってくるとです、その難儀な事がです、あなたのせいにする、人のせいにするとゆうような事ではなくて、自分自身の心の上に、それを持って来るような頂き方、そうゆう頂き方が本当なんですから、そうゆう頂き方を光の道と頂きましたですね。そうゆう生き方を合楽では、いよいよ身に付けさせて頂くとゆう事。その光の道を、自分が分からしてもらい体得させてもろうて、子に孫に伝えていく。そうゆう生き方がです、今日の御理解からいくとです、光の道を伝えてゆくのですから、生き通しに生きられる。死したる後も拝まれる。私は信心とは、そうゆう信心になります。
今日は、だから二十七節のここからヒントを得てね、他の意味の事を大体聞いて頂いたような気がするですね。只道理の上で、ほんとそげん言やそげんですなぁ、あんな善人の人でもと、村内にもやっぱりあるでしょうが、一人二人。一家中をあげている人じゃけれども、中々芽が出らないとゆう家があるでしょう。かと言うと、とてもとてもこすかこすかそればっか、そうにゃ?儲け出しちゃるとゆう家があるでしょうが。だからそうゆう道理をここでは説かれたんです。だから信心をしておかげを受けるのは別物とゆう事。だから信心しとる者は、必ず善人ばっかりじゃない。どんな悪人でもおるとゆう事。狡いともおればこすいともおる、とゆう事。けれどもそげんとでも、信心すればおかげが受けられる。しかしそうゆうおかげでは、今日はこんなにつまらん大変な事だとゆう事を聞いて頂いて、やはり目指すところは生き通しに生きられる道を、私共は歩かせてもろうて、光の道を歩かせてもろうて、それを例えば子に孫にも伝えてゆけれるようなところ迄、信心を高めていこうとゆう時にです、私は初めておかげを受けるのは別物とゆう意味の、又別物をそこから感じ取らせて頂く事が出来るような気がするのです。どうぞひとつ死したる後、人から拝んでもらえる程しの信心を頂きたいと思います。どうぞ。